灰色の空から降り注ぐ雨が、もの寂しげなメロディを奏でていた。

この演奏はここ2,3日の間、ずっと続いている。

「雨か・・・」

窓から外を眺めていた智也が、小さくつぶやいた。

ふとひとりの少女の顔が脳裏に浮かび、胸に針を刺したような痛みが走った。

彩花・・・

智也が初めて好きになった幼なじみの少女。

数年前、今と同じような雨の降る日に、智也は彩花を失った。

そして、それが原因で智也はふたつのロザリオを背負い、過去に束縛された。絶望と孤独というロザリオを。

しかし、もうひとりの幼なじみのひたむきな思いによって、智也はロザリオを断ち切り、過去の呪縛から解放された。

今はまだ完全ではないが、心の傷は少しずつ癒されていった。

プルルルル。

電話の呼び出し音が智也を現実の世界に引き戻した。

ちらりと時計を見て、智也は電話をかけてきた相手の予測がついた。

「もしもし」

「あ、智ちゃん。唯笑だけど・・・」

受話器を取ると、予想どおりの声が耳に入った。

智也を救ってくれた幼なじみであり、恋人でもある少女からだった。

「どうしたんだ?」

「あの、えっとね・・・」

智也の問いかけに唯笑が口ごもる。予想どおりのリアクションに思わず笑みがこぼれた。

唯笑は雨が降ると、用もないのに決まった時間に電話をかけてくる。

智也はそこに隠されている真意に気づいていた。

だから、こうして唯笑が電話してくれることがとても嬉しかった。

「うーんとね、えーとね・・・」

唯笑は懸命に口実を考えていた。

「明日のデートのことで用があったんじゃないのか?」

このままだと、夜が明けてしまうので、いつものようにフォローをいれた。

「あ、そうそう。明日のことで電話したんだよ。明日のお弁当は何がいいかなあって」

「人間が食べれるものを作ってくれよ」

「それってどういう意味よお」

「おまえが恐竜でも食えないような弁当を作るんじゃないかと心配しているんだよ」

「ぶー、智ちゃんのいじわるぅ」

唯笑が抗議の声をあげた。きっと受話器のむこうで頬をふくらませているだろう。

「いいもん。こうなったら智ちゃんが感動して、涙が止まらなくなるようなお弁当を作ってやるんだから」

「あまりの不味さに泣くことはあっても、感動して泣くことはないな」

「うー、ずぇーたいに作ってやるから」

「そんでもって、智ちゃんに「おいしいお弁当ありがとうございました、唯笑様」って言わせてあげるから」

「ハハハ、弁当作りに夢中になって遅れんじゃないぞ」

「智ちゃんこそ寝坊して遅れちゃだめだよ」

「分かった、分かった。じゃ、明日公園で待ってるぜ」

「うん、分かった。おやすみなさい、智ちゃん」

「おやすみ、唯笑」

電話を切ると、智也はふたたび窓を見た。

「雨、あがるといいな・・・」

智也はベッドに寝転びながら、明日のことを考えた。

翌朝、昨日までの雨はあがり、空は灰色から水色に変わっていた。

智也は約束の時刻よりも早く待ち合わせ場所の公園にたどり着き、暇を持て余していた。

「んー、退屈だな」

智也は腕時計を一瞥したあと、公園の入り口に視線を向けた。

そのとき、こちらに向かって歩いている人影に気づき、我が目を疑った。

「あ、彩花・・・!!」

そんなはずはない。彩花はもうこの世にはいない。自分のもとから、遠い世界へ旅立ったのだから。

「会いたかったよ、智也」

聞き覚えのある声だった。

夢を見ているのか?

智也は顔を思いっきりつねった。痛みに表情を歪めたのと同時に、目の前にいる彩花がクスリと笑う。

夢なんかじゃない。これは現実なのだ。

「彩花、どうしてここに・・・」

智也がかすれた声で尋ねた。

「智也のそばにいたくてやって来たの。ねぇ、覚えてる智也。昔、ここでずっとそばにいてくれるってこと」

「ああ、覚えてるよ」

確かに自分はそう言った。昔、ここで。

そのときの記憶が智也の胸を苦しくさせた。

「よかった、覚えていてくれて。それじゃあ、今日からずっと私のそばにいてね。

私、もう離れ離れになるのは嫌だから」

彩花の潤んだ瞳が智也を別世界へ誘った。

そして、ふたたびあのときの悪夢のロザリオが、智也の心を縛り付けた。

俺は彩花のそばにいなくてはいけない。それは俺が望んでいたことなのだから・・・

「ごめーん、智ちゃん・・・え、あ、彩ちゃん!?」

遅刻してやって来た唯笑が、呆然とその場に立ち尽くした。

「ど、どうして!どうして彩ちゃんがここにいるの!?」

激しく動揺する唯笑に、彩花は穏やかな笑みを浮かべた。

「智也のそばにいたくてやって来たの。智也は私がいないと駄目だから」

「え・・・そう・・・なの・・・」

唯笑がか細い声でつぶやいた。他にも聞くことがたくさんあるはずなのだが、今の唯笑にはそれだけが精一杯だった。

智ちゃん・・・

すがるような目で智也を見る。

しかし、智也の瞳に映る世界には、彩花だけしかいないことが分かり、いいようのない息苦しさを覚えた。

「智也、今から私とデートしようよ。私、この日が来るのをずっと待っていたんだよ」

彩花が1歩前に出て、右手を差し出した。

「ちょ、ちょっと待って!今日、智ちゃんは唯笑と遊園地に行く約束をしてるんだよ。だから・・・」

唯笑は最後の言葉が出せなくて、顔をうつむかせた。何も言えないもどかしさに歯噛みする。

死んだはずの彩ちゃんが目の前にいるのに、どうして嬉しくないの・・・どうしてこんなに不安なの・・・

彩花は唯笑にとっても大切な幼なじみなのに、なぜか素直に喜べない。

昔、抱えていた”切なさ”がふたたび目覚め始めたからだ。

「悪いけど、私は智也とふたりっきりになりたいの。それが智也の望んでいることだから」

「智ちゃんが望んでいる・・・」

「そうよ。智也に必要なのは私なの。唯笑ちゃんじゃなくて私なの。唯笑ちゃんは必要とされてないのよ」

「必要とされてない・・・」

「そうよ。智也のそばにいられるのは私だけ。私じゃないと駄目なの。唯笑ちゃんじゃ駄目なのよ」

彩花が冷ややかな笑みを浮かべて言い放った。

「そんな・・・そんな・・・」

唯笑は両腕で自分を抱きしめ、小さく震えた。

「さ、智也。唯笑ちゃんなんかほっといて早く行こ。また昔みたいに楽しいデートしようよ」

さらに1歩踏み出す彩花。

彩花が呼んでいる。俺が大切にしていた彩花が・・・

智也が頼りない足取りで彩花に近づいた。そのとき、

「行っちゃヤダ!」

唯笑が智也にしがみついた。

「行かないで!智ちゃんには、彩ちゃんが必要かもしれないけど、今の唯笑には智ちゃんが必要なんだよ!」

「智ちゃんがいないと駄目なんだよお!」

泣きじゃくる唯笑から発せられた純粋で強く、そして温かい力が智也を包み込んだ。

「・・・大丈夫だ、唯笑。俺はおまえのそばにいる」

「え?」

涙で揺れる視界の先には、自分を取り戻した智也の姿があった。

「おまえは彩花なんかじゃない!本当の彩花だったら、唯笑をこんなふうに傷つけたりしないはずだ!」

智也は唯笑をかばうように前へ出た。

「何言ってるの、智也!私は正真正銘の桧月彩花よ。智也は自分が好きだった女の子のことが信じられないの?」

彩花が険しい表情で語気を強めた。そこに動揺の色が走っていたのを、智也は見逃さなかった。

「確かに俺は彩花が好きだった。今でもその気持ちにうそはない」

「だけど、好きだったのは昔の彩花で、おまえじゃない」

「今、俺が好きなのは唯笑だ。これからはずっと唯笑を彩花と同じくらい、いやそれ以上、大切にしていたいんだ!」

智也はじっと彩花を見つめた。

「ど、どうして・・・私は・・・私は・・・きゃあ・・・!」

彩花は2、3歩後ずさったあと、忽然と姿を消した。

跡形もなく消えた彩花を見て、智也と唯笑はしばしの間、呆然となった。

「よかった、ふたりとも無事で・・・」

不意に背後から聞き覚えのある声が背後からしたので、ふたりは同時に振り向いた。

そこには白い翼が生えた彩花の姿があった。

「ほ、本物の彩ちゃん・・・?」

唯笑の問いかけに、翼の生えた彩花は微笑んでうなずいた。

「な、何がどうなってるんだ?」

立て続けに起こる不可解な現象に、智也はパニックに陥った。

「さっきの私は智也が創り出した私なの」

「俺が創りだした?」

「そう、あれは智也が引きずっていた悲しみと絶望の記憶が創り出した私なの」

「多分、智也がその過去を振り切って歩き出したから、現れたと思うの。智也をふたたび絶望と悲しみに縛り付けるためにね」

「そうなのか・・・」

現実離れした話だったので、にわかに信じられなかったが、今、起こっていることすら非現実的なので、信じるしかなかった。

どう考えても論理的で明確な答えなんて見当たらないのだから。

「智也、もう二度と唯笑ちゃんを悲しませたりしないでよね

「もし、また唯笑ちゃんを泣かしたりしたら、私、絶対に許さないから」

彩花が真剣な表情で言った。

「分かってる。もう二度と唯笑を悲しませたりしない」

真摯な彩花の気持ちに、智也は力強く答えた。

前にも、さんざん唯笑を傷つけ、悲しませてしまったにも係わらず、また同じことを繰り返した自分の不甲斐なさを痛感する。

もう振り返りはしない!

智也は強く自分に言い聞かせた。

「唯笑ちゃん、智也は本当に頼りないから、しっかり捕まえていてね」

「うん、唯笑はずーっと智ちゃんのそばにいるよ」

唯笑は笑顔で答えた。

「ありがとう。それを聞いて安心したわ。じゃあ、私はもう行くね」

「え、もう行っちゃうの?せっかく会えたのに・・・」

唯笑の顔が悲しみの表情に変わる。

「うん、もう行かないといけないから。でも、悲しまないで。私はいつもふたりのそばにいるから」

「・・・うん、そうだよね。唯笑たちは子供の頃、ずっと三人一緒だって約束したんだよね」

「そうだよ、唯笑ちゃん」

そう言って彩花と唯笑は微笑あった。

「じゃあね、智也、唯笑ちゃん」

彩花は別れの挨拶を告げると、宙に舞い、空へ帰っていった。

残されたふたりは、名残惜しげにしばらく空を見ていた。

「何かすごい1日だったな」

智也はそう言って唯笑のほうに顔を向けた。

「そうだね。でも、そのおかげで彩ちゃんに会えたからよかったよ」

唯笑が嬉しそうに言った。

「そうだな。それじゃ、少し遅くなったけど、遊園地に行こうか」

「うん!」

歩き出した智也の腕に唯笑がしがみついた。

「お、おい、唯笑。そんなにひっつくな」

腕に伝わる柔らかい感触に、智也の顔が真っ赤になった。

「駄目だよ、智ちゃん。さっき彩ちゃんに言われたもん。智ちゃんを捕まえていろって」

さらに力を込める唯笑。

「お、おいおい。そんな格好じゃ恥ずかしいぞ」

「照れない、照れない。さ、早く行こっ、智ちゃん」

「うわっ、そんなに引っ張るなって」

唯笑に引っ張られながら歩く智也の表情は、今までになく生き生きしていた。